貧民窟

 貧民窟から、二人の支那人が引っぱって来られると、上川は、それによって、焦慮と、憤怒と、冷かされた鬱憤を慰めるものゝように、拳を振りあげて支那人に躍りかゝった。あとから、ほかの兵士達も、つゞいて二人の乞食の上に、なだれかゝった。殴ったり、踏んだり、蹴ったり、日本語で毒づいたり。しかし、いくら、どんなことをやったって、上川の軍衣は発見されなかった。 ここでも、早速、内地における軍隊生活と、同じ軍隊の生活は初められた。彼等の飯は彼等が炊《た》いた。部屋の掃除も、便所の掃除も、被服の手入れも、歩哨勤務も、警戒勤務も、すべて彼等がやった。初年兵と二年兵の区別は、いくらかすくなくなった。が、やはり存在した。兵卒と下士の区別、兵卒と将校の区別は、勿論厳として存在した。「寝ろ、寝ろ! 寝るが勝ちだ。」 マッチ工場の寄宿舎から、工人を他の一棟へ追いやって、そこの高粱稈《コウリャンかん》のアンペラに毛布を拡げ、背嚢か、携帯天幕の巻いたやつを枕にして、横たわった。実に、長いこと、彼等は、眠るということをせず、いろ/\さま/″\な作業を、記憶しきれない程やったもんだ。一週間も、もっと、それ以上も睡眠と忘却の時間を省いて労働と変転とを継続した気がした。十日間、いや、二十日間。「ここは、たゞ、家屋の広い適当なやつがほかにない関係上、泊るだけだから、」当直士官は、誠《まこと》しやかな注意をした。「ここの、工場の支那人とは、あんまり接触してはいけない。殊に、マッチを箱に詰めるところや、職工の寄宿舎には、婦人もいるんだから、用事のないのに、そこへむやみに出入りしてはいけない。」「はいッ!」「それから、支那人の中には、よくない思想を抱いている奴があるかも知れない、それにも気を配って、大和魂を持っている吾々がそんな奴に赤化されては、勿論、いけない。そんなことがあっては日本軍人として面目がないぞ。」「はいッ!」 兵士達は、靴もぬがず、軍服もぬがず巻脚絆も解かず、たゞ、背嚢の枕に頭を落すと、そのまゝ深淵に引きずりこまれるように、執拗な睡眠の誘惑に打ちまかされてしまった。

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